あたらしい場所であたらしい仕事をするとき、なにを基準に行動すればいいのでしょうか。イノベーションを起こすためには、どんなスキルや経験が必要なのでしょうか。それらを知りたいのなら、試行錯誤しながら行動する人に聞いてみるのが一番です

数々のクリエイター、ビジネスリーダーたちの働き方を紹介する米Lifehackerの人気連載「HOW I WORK」も好評ですが、同じようにぼくたち日本版では、自分らしい生き方・働き方を実践している人たちに会いに行こうと思いました。

第9回の取材相手は、J3リーグ(2014年度、Jリーグに新設された3部リーグ)に所属する「FC琉球」のチームマネジャーである新垣勇太(あらかきゆうた)さん。新垣さんは1984年生まれ、現在29歳です。2013年になでしこリーグ所属「INAC神戸レオネッサ」の沖縄合宿でアテンドを担当したことをきっかけに、沖縄での女子サッカー人気と可能性を実感。大企業が少ないなどの地域的な事情もあって社会人チームが育ちにくい沖縄に、本格的な女子サッカーチームを作ろうと奮闘中です。以下のサイトからも、未踏の領域に対する新垣さんのやる気を感じることができるはずです。

沖縄県 新垣勇太さん ムービー編 ①|キミハツ -未来をハツラツにできるか。-|オロナミンC|大塚製薬

チーム設立に向け、本格的に動き始めたのは2014年2月のこと。とはいえ選手も監督もいない状態であり、2015年に誕生する女子サッカー3部リーグに参入するための条件をクリアするのもひと苦労。不安なことだらけの状況下にも希望を失わず、持ち前の行動力を武器として、ハードルをひとつひとつクリアしている毎日だといいます。その強い精神力は、どのような環境で培われていったのでしょうか?

「うーまくー」なやんちゃ坊主

新垣さんは、沖縄本島の最南端にあたる糸満市出身。現在も、いかにも元気ハツラツなスポーツマンという印象ですが、小さいころから沖縄の言葉でいえば「うーまくー(やんちゃ)」なタイプ。好きな女の子にカマキリを投げつけてみたり、なにかイタズラをしては怒られていたりするような毎日を過ごしていたのだそうです。

育ったのは、典型的な一家の大黒柱であるお父様に、お母様と子どもたちが寄り添っているような仲のよい家庭。新垣さんは姉、兄、姉、姉に次ぐ5人きょうだいの末っ子で、いちばん上のお姉さんと15歳違いだったこともあり、家族全員からかわいがられて育ったのだといいます。

サッカーしかなかった10代

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そんななか、仲のいい近所の友だちに誘われて始めたサッカーに「めっちゃハマッた」のは小学校3年生のころ。中学校もサッカーに明け暮れ、高校では沖縄県内ベスト4に入るほどの強豪校へ進みます。1年生のころはメンバーに入れず悔しい思いもしましたが、2年生から卒業まではずっとスターティングメンバーで、国体にも出場するなど大活躍。3年のときには練習を見に来たスカウトマンから評価されたこともあり、その思いが「Jリーガーになりたい」という気持ちへと発展していったのは、ごく自然な流れだといえるでしょう。

もっと大きなフィールドで勝負したい

その結果、どんどん高まっていったのは「沖縄にとどまり続けるのではなく、もっと大きなフィールドで勝負したい」という思い。九州大会など大きな試合に出て、それなりの結果を残したものの、最終的な部分での物足りなさを否定し切れなかったというわけです。

その理由から、新垣さんは高校卒業後の進学先として千葉県の国際武道大学を選びます。千葉県リーグから関東リーグに勝ち上がっていける実力を持った、有名な強豪校です。しかも当時は、関東1部リーグに上がるか上がらないかというほど、期待の高まっていた時期でした。

「プロだけがすべてじゃない」と教えてくれた恩師との出会い

サッカー漬けの生活を期待していたものの、待っていたのは意外にも「人としての基本」を徹底的に叩き込まれる毎日。当時、国際武道大学を率いていた湯田一弘監督が「プロだけがすべてじゃない」「社会に出れば毎日が戦いのだから、まずは人として当たり前のことを当たり前にできる人になれ」という考え方の持ち主だったからです。

勝利はもとより、チームの目的は「熱い行動力のある人材を育成する」こと。笑顔を見せることすら許されない状況下での練習は厳しかったそうですが、湯田監督に会ったことで「いままでの自分は全然だめだ」と気づけ、新垣さんにとって人生での大きな転機になったといいます。

ところがその後、思いもかけない事態に。大学4年のときに膝を怪我してしまい、サッカーを続けることが難しくなってしまったのです。自分からサッカーがなくなるという事実をなかなか受け入れることができず、「嫌な終わり方だった」といいますが、監督の「与えられた環境で自分のできることをしっかりやれ」という言葉を胸に、進んでチームの応援団長になることでその悔しさを克服したのだとか。長い目で見れば、その経験もまた今につながる肥やしになっているのだといえるでしょう。

不思議な巡り合わせからFC琉球に関わることに

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その後は、地元の中学校での2年間にわたる臨時職員生活を経て、お兄さんが立ち上げたイベント会社に就職します。最初にFC琉球と関わるようになったのは、不思議な巡り合わせだったようです。

イベントの仕事をしながら、同時に夏場のビーチの監視業務を委託で受けていました。夏場のシーズンが終わると、冬場はいろいろな会社に出向していました。

その頃、自分は母校である高校のサッカー部の外部コーチとして関わっていたんですが、FC琉球から「糸満市にスタジアムを造りたい」という話が出たんです。そうなると、地元の議員さんとのお話が必要になるわけですけど、ちょうど兄が市議の後援会長をしていたんですよ。そんなことからFC琉球関係者とのコネクションができ、その流れで「冬場は何してるの?」みたいな話になって、「サッカー経験者なのだし、それならFC琉球に仕事に来てもいいんじゃない?」って言っていただけたんです。

それから、毎年3月ぐらいまでは営業兼運営という立場でFC琉球をお手伝いするようになりました。沖縄でのキャンプ誘致を行っていたんです。たとえば、グラウンドの借用やホテルとの調整役、Jリーグのマネージャーがいらしたときにアテンドして一緒に回ることもしました。それで、春になったらまた海に戻る。そんな毎日を5年くらい続けて、今年からはFC琉球の専属マネージャーとして、1年通して働いているという感じです。

沖縄にも、女子サッカーの受け皿をつくりたい

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ところで、そもそも女子サッカーチームをつくろうと思ったのでしょうか? そのきっかけをお聞きしたら、ちょっとおもしろい答えが返ってきました。

一番のきっかけは、キャンプでINAC神戸さんが沖縄に来て、たくさんの人が集まったことです。自分も小学校時代からサッカーをやってきた中で、沖縄にいてJリーグのプロ選手を間近で見られるということはあり得なかったんですよ。沖縄にもいまはFC琉球というJ3のチームができたので、プロという肩書を持つ選手はいます。でもそれ以前は「小学生時代によく買ってた『Jリーグチップス』に付いてくるおまけのカードでしかプロ選手は見たことがない」っていうレベルだったので(笑)。

だからそのとき、「もし、沖縄にプロの女子チームがあって、それを間近で見られたら、次の世代に影響を与えられることができるはずだ」と思ったんです。そもそも沖縄は競技者人口が多くて、女子サッカーの人口も多いんですけど、チームとしての受け皿がない。それで仕方なく高校から県外に行くような人も多いので、「沖縄にも、絶対に受け皿が必要だよね」と、上の世代の人たちと話をしているところだったんです。

沖縄に必要とされるチームにならなければ意味がない

とはいっても、誰もやっていないことにチャレンジするためには相当の勇気が必要だったはず。迷いのようなものはなかったのでしょうか?

レベルを上げられるのか、活躍する選手を沖縄から輩出することができるのか、スポンサーをどうするかとか、迷いも多少はありました。けれど、それでも女子サッカーには可能性を感じるんです。自分もサッカーをやってたので、可能性の大きさがよくわかる。それに女子サッカーに関わっている先輩などから「女子のチームは絶対つくってほしい」とも言われていますしね。いつか誰かが絶対やらなければいけないことだと思いますし、だったら、がんばってみようかなって

この沖縄でやる以上、沖縄に必要とされることがベストで、それなしではやっても意味がない。ですから沖縄の人たちに、「女子プロサッカーチームは沖縄に必要だね」って言われるようなチームを作りたいという気持ちが、まずひとつあります。そこまで進んだ段階で、たとえば「働きながら選手生活を続けることの難しさ」などが課題として出てくると思うんです。事実、なでしこジャパンなどもそうでしたからね。だとしたら、それぞれの選手の勤務先でも、「人としてどうか」という部分が大事になってくる。そういった選手としてプレーすること以外のことを、いかにクリアするかを考える必要もあります。

その延長線上で、スポンサーの話なども出てくるでしょうし。そういう意味でも、周囲から認めてもらえるような、人間性のあるチームをつくることが大切。それはかなり難しいと思うんですけど、でも、いま自分たちがイチからつくろうっていうチームだからこそできることだと思うんです。いま、ガンバ大阪や名古屋グランパスに同じことをやれって言っても、それは相当難しい。でも、その下の段階、土台がまだできてない現状からだと、逆にできる気がするんです。

また、沖縄ならではの可能性もあるといいます。沖縄には「横のつながりを大切にし、スイッチが入るとすごい熱が入るパワーがある」という人が多いそう。たとえば高校野球で沖縄県代表が試合をすれば、出場校や知り合いをはじめ、役所にあるすべてのテレビが甲子園一色に染まるほど、みんなで球児を応援して熱くなる。その熱が女子サッカーにも向けられる期待は充分にあるでしょう。

そして、女子サッカー強豪国としてアメリカは有名ですが、沖縄にある米軍基地内でも盛んに女子サッカーが行われており、選手や監督の交流も視野に入れているそうです。

INAC神戸や日テレ・ベレーザと戦えるチームを

チームの立ち上げに際し、新垣さんにいま思う理想のチームの姿を聞いてみました。

まずはチャレンジリーグに参入できるチームを目指して、少しでも早く承認を得て、チームを作っていきたいですね。そして理想という意味では、10年くらいかけて、結果的にアジアカップなどに出られるような選手を出せればいいと思います。ただ、それより先になでしこリーグの1部で、INACや日テレ・ベレーザと同等に戦えるようなチームを育てたい。現時点では、それこそが本当の理想じゃないかなと思っています。

「性格的にまったくネガティブにならないし、ポジティブな発想しか出てこないんですよね」。そう笑う新垣さんの言葉には、相手に勇気を与えるような魅力があると感じました。乗り越えるべき課題が多いとしても、その考え方さえあれば、きっとうまくいくはず。半年後、1年後、そして10年後、沖縄の女子サッカーがどうなっていくのか。いまから、とても楽しみです。

下記のサイト『キミハツ』内にある動画では、新垣さんの仕事に対する考え方や、将来への希望を確認することができます。ぜひ、あわせてご覧ください。

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沖縄県 新垣勇太さん ムービー編 ①|キミハツ -未来をハツラツにできるか。-|オロナミンC|大塚製薬

(印南敦史)